『沈黙』を読んで、長崎へ行った

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人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです

『沈黙』という本をご存じだろうか。

遠藤周作が17世紀の日本の史実・歴史文書に基づいて創作した歴史小説で、第二回谷崎潤一郎賞を受賞した、氏の代表作である。

マーティン・スコセッシが2017年に映画化したことでも有名だ。

この本を私が読んだのは、宗教に対して明るい知識を身に着けたいという思いや、日本における宗教の歪さや複雑さを知ってたいと思ったからだ。

キリスト教国であるフィリピン留学の前に読んだ。外国人と向き合う前に、他国の宗教観、そして日本の宗教の歴史の一部を知っておきたかった。

本当に、日本というのは、こと宗教に関しては変わった国である。不思議の国ニッポン。

2022年版の「信仰の自由に関する国際報告書」によると、日本人はおよそ48%が神道、46%が仏教を信仰しており、その他が5%。キリスト教はその他の内の1%しか占めない。

世界的にみると、キリスト教の信仰者が圧倒的に多く、全人口の73億に対し世界の3人に1人程度がキリスト教の信仰者だというのに、どうして日本にはこんなに少ないのだろうか。

それは、『沈黙』を読むとよく分かる。

島原の乱が収束して間もない日本が舞台である。

秀吉の死後、江戸幕府を開いた徳川家康は、海外との貿易を継続するために、キリスト教を容認したことから信徒が増加したという経緯があり、その数およそ30万人と言われている。

島原の乱は、キリスト教徒が幕府軍に武力的に抵抗した大事件。天草四郎率いるキリスト教徒たちは、そのほとんどが全滅したと言われている。

これを受けて幕府は、さらに厳しくキリスト教を禁ずる必要があると思い立ち、かの有名な踏み絵や、残酷な拷問で以て、キリスト教から転ばせよう(改宗することを転ぶと言っていた)という取り締まりを行った。

それまでも豊臣秀吉の伴天連追放を始めとして、キリスト教徒たちは酷い仕打ち受けてきたのだが、それがまた激化してしまったというわけである。

主人公は一人のポルトガル人司祭。物語は彼と長崎に潜む隠れキリシタンたちとの出会いから、彼が拷問を受け、転ぶまでを描く。

拷問の描写も印象的だが、私が深く考えさせられたのが、隠れキリシタンたちの信仰が、本家のそれとは違っていることを司祭が嘆くシーンである。

キリストやマリアとは似つかない銅像であったり、貝殻や自然石などを崇拝したりという、うがった、まがい物を神として信じているのだと描写されるのだ。

私は初めこれを読んだ時、なるほど、日本人というのは、都合よく信仰の仕方を捻じ曲げる傾向があるのか。だからハロウィンもクリスマスも祭り感覚で祝うのかと、妙に納得したのである。

しかし、それは実際に長崎を訪れて、違うのかもしれないと実感した。

こちらの写真をご覧いただきたい。

これは、長崎駅から少し離れた場所にある、「辻神社」という神社だ。

この神社がある、「大野集落」には、3つの神社があり、最も山奥にあるのがこの辻神社である。

メインの境内は、普通の小さな神社と同じだが、そのわきにあるこの地蔵は何やら様子が違うように見える。

はっきりとした文献が残っているわけではないので、確信は持てないが、これが普通の地蔵とは異なることは明らか。

何か、キリスト教のいわれがある地蔵のように見えなくもない。キリシタンが身を寄せ合っているような、そんな風にも感じられる。

さらに、門神社という神社でもそういった傾向は見られた。

これらの神社では、隠れキリシタンたちが、神社や寺を信仰しているのを装って、実はキリスト教の祈りを捧げていたそうだ。

つまり、伴天連追放を機に、司祭を失ってしまった日本人のキリシタンたちは、それでも何とか、自分たちなりに必死に神に祈りを捧げていたのである。

また、もともとこれらの神社は、自然に宿る神々を信仰する神社なのだとか。

カモフラージュとして、神社を訪問したり、祈りの対象を自然物や身近なものにしたりしているうちに、本来のキリスト教の教えとは違った方向へ歩んでしまった、愛ゆえの誤りというか。そういった経緯があるのだった。

決して彼らが愚かだったわけでも、不作法だったわけでもない。そうでもしなければ、祈り続けることができなかったのである。密やかに、隠れながら、怯えながら、必死に信仰を続けたのだ。

『沈黙』が刊行された際、遠藤周作は、カトリック教会から、大変なバッシングを受けたそうだ。司祭が踏み絵を踏むなどという物語を書くとは何事かと。

しかし、それに対し遠藤はこう答えている。

それには考えられる理由が当然ある。棄教者は基督教教会にとっては腐った林檎であり、語りたくない存在だからだ。臭いものには蓋をせねばならぬ。彼等の棄教の動機、その心理、その後の生き方はこうして教会にとって関心の外になり、それを受けた切支丹学者たちにとっても研究の対象とはならなくなったのである。

こうして弱者たちは政治家からも歴史家からも黙殺された。沈黙の灰のなかに埋められた。だが弱者たちもまた我々と同じ人間なのだ。彼等がそれまで自分の理想としていたものを、この世でもっとも善く、美しいと思っていたものを裏切った時、泪を流さなかったとどうして言えよう。後悔と恥とで身を震わせなかったとどうして言えよう。その悲しみや苦しみにたいして小説家である私は無関心ではいられなかった。彼等が転んだあとも、ひたすら歪んだ指をあわせ、言葉にならぬ祈りを唱えたとすれば、私の頬にも泪が流れるのである。

Wikipediaより引用

遠藤が書かなければ、確かに黙殺されていた出来事だったのかもしれない。日本のように仏教や神道が生活レベルで、常識と混じり合って在る国における、特殊で悲しい出来事だ。

しかしもしかするとこういった少数を排斥しようとする運動は、今なお、特定の宗教が第一宗教とされている国、あるいは社会主義が色濃く残る国では少なからず起こっているかもしれない。

宗教に限らずに言えば、マイノリティが非難され、弱い立場にいることは世界中で在ると言えよう。

『沈黙』の碑はとても美しい場所にある。

有明の海が見える絶景だ。

遠藤はこの碑に、こう記した。

人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです

あまりにも感慨深い。

碑の詩を詠んだ遠藤にも、現在もなお大事にこの歴史や文化遺産を守り続けている長崎の町の人にも敬意を表したい。

ここに書いたほとんどのことは、長崎にある資料館や博物館で得た知識がベースになっている。

日本の人口の1%。この数字をどう見るか。人数にすると190万人以上なのだ。

はたして僅か1%だと捉えていいものだろうか。

話は戻って、日本人というのは不思議な宗教観を持つ人種である。

正月にはほとんどの日本人が神社に行くし、お盆と葬式は仏式、結婚式はクリスチャン式。その上、クリスマスもハロウィンも盛大に祝うときている。

そして、神道と仏教以外の、ある種の宗教に対しては、冷ややかだ。むしろ怒りや蔑視を見せる人すらいるといえる。

と思ったら、十字架のアクセサリーやタトゥーを、キリスト教でないのに洒落で身に着けてたりする。

しかし一方で、この長崎旅行において、それは日本人だけが特別でないことも分かった。

宿泊先のゲストハウスで、イギリス人とドイツ人と話す機会があった。彼らも、教会に行くのはクリスマスと結婚式の時くらいだと言っていた。

おそらく、世界のほとんどが、クリスマスやハロウィンは楽しいイベントなんだろう。信仰心の強い者はどんどん減ってきているのかもしれない。

私は、無神論者だし、それでいいと思っている。

でも、正月の神社参拝や盆踊りと同じように、クリスマスが当たり前のイベントになっているその上には、苦しんだ人々や多くの犠牲があったのかもしれないということを知っていたい。

 



 



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