『七人の侍』菊千代が僕らに問いかける

アクション・パニック映画

悔しくて涙が出らぁ

映画『七人の侍』を鑑賞しました。

随分前に鑑賞したことはあったんですが、その時は今ほど映画に傾倒していたわけではなく、この作品の素晴しさが分かりませんでした。

しかし、改めて観るともう、圧巻でした。

日本映画の頂点と言っても過言ではないかも。

アクションも、ドラマも、ちょこっと恋愛もある。

しかもヒーローが弱い者を救うという定番のシナリオ。万人が感動できる構成であるのに、メッセージがめちゃくちゃ深い。

今これだけ深みのある作品を作ろうと思ったら、ターゲットをしぼったり、ドラマ要素の方に注力しないと、なかなかできないと思うんですよね。特に日本映画においては。

でも、『七人の侍』は違う。多くの人が共感し、楽しみながら、強烈なメッセージを受け、考えることができる。日本を越えて、世界中で。

エンタメと感得が共存した究極の作品だと思いました。

私が本作で一番強く感じ取ったのが、「百姓として生きる人々」の想いなんですよね。「侍のカッコよさ」ではなく。

そして、そのために重要なのが三船敏郎演じた「菊千代」の存在です。

bitotabi
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今回の記事では、菊千代にスポットをあてて、感想をお届けします。

ダニー
ダニー

詳しく覚えてない人向けに、あらすじを載せておくね。

戦国時代の日本、ある小さな村が野武士に襲われる危機に瀕していた。村人たちは自分たちを守るため、七人の侍を雇うことを決意する。侍たちは村に到着し、村人たちと協力して防衛の準備を始める。彼らは村を守るための戦略を練り、村人たちを訓練し、士気を高めていく。やがて、野武士たちが村を襲撃する日がやってくる。侍と村人たちは力を合わせて戦い、激しい戦闘の末に村を守り抜く。しかし、その過程で多くの犠牲が払われる。

 



劇中百姓について語った3人のキャラクター

『七人の侍』では、侍たちと百姓たちがメインキャラクターです。

百姓たちのほとんどは基本的に、これといったセリフもなく、侍たちを敬い、言うことに従います。

しかし、そんな百姓たちを俯瞰して観て、意見を述べるキャラクターが3人いると思ったんですよ。

「菊千代」と「長老」、そして多々良純演じる「木賃宿の飲んだくれ」です。

まず、この映画で一番初めに私の心を打ったのが「木賃宿の飲んだくれ」でした。

彼は人物名もないほどの脇役なんですが、劇中で唯一、志村喬演じる島田勘兵衛に激怒するキャラクターなんですよね。

百姓たち直々の嘆願であるため、金も名声も何もない。与えられるのはただ腹一杯飯を食わせてくれるだけ。それを聞いて「うーむ」と顔をしかめる勘兵衛に対して放ったセリフがこれです。

おい、お侍、これを見ろ!こいつはお前さんたちの食い分だ ところが、この抜け作どもは何食ってると思う 自分たちは稗食って、おめえさんたちには白い飯食わしてんだ! 百姓にしちゃこれが精一杯なんだ!

と激しく物申します。

それまで、報酬もなく強い侍たちを集めようとする百姓たちを小馬鹿にしていた彼でしたが、侍たちの態度と勘兵衛の言葉を聞いた瞬間に激昂し、結果彼のこの言葉によって、勘兵衛は引き受けることになるんです。

物語の起点として、とっても重要なキャラクターだと思うですよ。

彼は、「人足」という、肉体労働者なんです。百姓よりは稼ぎはましかもしれないし、気ままな生活を送れてもいる。だから、初めこそ百姓たちの惨めさを笑いものにしていたんですが、自分よりも立派な暮らしと地位を持っている侍たちの態度をみて、百姓たちを哀れに思ってしまったんでしょうね。もしかすると、彼もまた、百姓の出なのかもしれない。名前すらないキャラクターですが、そんな想像さえ膨らみます。

続いては村の長老である儀作です。

彼は侍たちが村へ到着した際、村人たちからの歓迎が何一つなく、これは一体どういうことかと尋ねた後、このように語ります。

百姓は雨が降っても日が照っても風が吹いても心配ばかりだで つまりびくびくするより能がねえ

と語ります。

村人たちは、野武士を恐れて侍たちを雇った訳ですが、今度はまた、その侍たちが村で好き勝手やり出すんじゃないかと噂し、そのために歓迎はおろか身を隠すような行動をとったんですね。

これって、映画を観ている私も滑稽に感じたし、何だったら無礼のようにすら感じました。

しかし、長老のこの言葉を聞いて、なるほど、百姓たちは闘う力もなければ抵抗する武器もない。だからこれまで危機が迫ったらびくびくし、身を守るより仕方がなかったのか。と、百姓という人々の暮らしがいかに哀れであるかを知ることになるんですよね。

侍たちも長老に会う前は「長老とお会いできるなんてなんと光栄なんだ」と百姓たちや村を皮肉ったような態度でしたが、このセリフを聴いて、態度がガラリと変わります。侍と百姓とはこんなに違うのか、自分たちが百姓のような暮らしをしている人々のことを何も知らないなと、実感するわけです。

そして、三人目の「菊千代」。彼こそが正にこの映画のメッセージである、百姓として生きるとはどういうものか、これを体現するキャラクターなのです。

彼については次項で詳しく解説します。

菊千代が語る百姓の苦悩

まず、菊千代というキャラクターについて。

長物を帯刀しているものの、その身なりは妙。

どうやら喧嘩は強いそうですが、武家の出でないことはすぐに勘兵衛に見抜かれてしまい、七人の中でいじられ役になることが多い。そういったキャラクターです。

ポスターやメインイメージとして使われることの多いこの写真。

あなたにはどう見えるでしょうか?

私は、笑顔なんだと思ってました。豪快・愉快な菊千代をイメージするショットなんだと。

でも違うんです。この前後のショットがこちら。

これ、怒ってるんです。嘆いているんです。悔しがってるんです。

この時のセリフがこちらです。

よく聞け!百姓ってのはな、ケチンボで狡くて 泣き虫で意地悪で間抜けで人殺しだ! 悔しくて涙が出らぁ だがな、そんな獣を作りやがったのは一体誰だ おめえたちだよ 侍だってんだよ! 戦のたびに村を焼く!  田畑は踏ん潰す! 食い物は取り上げる! 人夫はこき使う! 女は犯す! 手向かえば殺す! 一体百姓はどうすりゃいいんだ! 百姓はどうすりゃいいんだ、百姓は、畜生、畜生、畜生、畜生

村の百姓たちは、落ち武者狩りをして、武器を隠していたことが分かり、仲間たちに揚々と報告する菊千代。彼にしてみれば、武器が手に入ったぞという朗報だったんですが、侍たちはよく思いません。なぜなら、落ち武者狩りというのは、武士にとっては許しがたい行為だからです。戦に出て、敗戦してしまった武士たちを襲い、武器を強奪・あるいは死体から奪い、それを金に換えるための蓄えにするという、残虐で非道な行為だと認識しているからですね。

しかし、百姓の側からしてみれば、菊千代の言う通り、百姓たちは戦に巻き込まれ、なす術もない。攻めてもの腹いせ、あるいは生きていくために、落ち武者狩りをしているのだと。

菊千代のこの痛切な叫びを聞いて、侍たちは言葉を失います。辛うじて勘兵衛が、「貴様、百姓の生まれだな?」と菊千代に問いかけます(この時の志村喬の目に涙を溜めたような表情もたまりません)。それに対しては何も答えず家を飛び出していく菊千代。そして侍たちは菊千代に学ばされてしまったと、気まずい笑みを浮かべるんですね。

やがて、野武士たちがやってきて、離れの人家に火をつけます。そして勘兵衛の静止を振り払いそこにいた村人たちを救出に向かう菊千代。焼けた家から母親を抱いた赤ん坊が命からがら出てきます。母親は意識を失い、赤ん坊は菊千代の腕に抱かれる。

こいつは俺だ 俺もこの通りだったんだ!

と、魂の咆哮。それまでは侍に憧れ、自分が百姓の生まれだとは決して言わなかった菊千代ですが、とうとう勘兵衛の前で打ち明けてしまいます。それほど、この百姓を守る戦いは、彼にとってショックの大きいものだったんですね。

菊千代は知っているんです。なぜなら百姓の出だから。

菊千代がいることによって侍と百姓の差や、逆境から這い上がる強さなど、観る者もシンパシーを得られるんです。

便利でコミカルなキャラクターのようで、侍たちに物申したり、百姓たちをまとめたりと、要所要所で芯を食った行動をするんですよ。百姓の気持ちが痛いほど分かるからなんですよね。

そして、侍たちもまた、菊千代の言葉で自分たちの無知や侍として生きてきたことは、恵まれていたのかもしれないと感じる事になるんです。これもまた、鑑賞者にも訴えかけているんですね。自分もまた恵まれた側にいるのではないかと。

百姓の気持ちが身に沁みて分かるからこそ、ムードメーカーとして盛り上げたり、侍に憧れる強い気持ちとその恵まれた体格でもって、敵を倒すことに活躍したりする菊千代。

終盤は自身の失策によって、仲間を失ってしまったと自責の念にかられます。しかし、これもまた、彼の人としての、侍として闘うことの心の成長であり、その結果敵の大将を討ち取るという偉業を成し遂げ、

百姓の気持ちが誰よりも分かる、強さと優しい心を持った侍と成り、散るのでした。

彼亡き後、物語は一番若い侍「勝四郎」にフォーカスします。裕福で家柄のいい浪人ですが、若さゆえにまだ戦に出たこともありませんでした。しかし、今回の百姓を守る戦いで、野武士たちと闘い、村の娘と恋仲になるなど男としても成長し、初めての戦で尊敬する人を失うなど、様々な経験を積みました。これから彼はこの経験を糧として、立派な侍として歩んでいくのか、それとも村の娘と共に歩むのかといったところで揺れるのですが、彼はやはり生まれついての武家の子で、プライドと地位を捨ててまで百姓の娘とは一緒になれないのでした。

そして勘兵衛は合戦後「また生き残ったな」と語り、最後に平和を勝ち取り祭り騒ぎで田植えをする百姓たちを尻目に、仲間や村人の墓を見つめながらこう言います。

今度もまた負け戦だったな 勝ったのはあの百姓たちだ 私たちではない

菊千代は百姓の惨めさや情けなさ、苦労や悔しさを知っていて、侍に憧れたわけですが、

勝四郎や勘兵衛の視点でもって、はたして侍であることもまた、幸せなのであろうかと問いかけるのであります。

今日の映学

最後までお読みいただきありがとうございます。

『七人の侍』を、菊千代というキャラクターの目線から深く解説しました。

bitotabi
bitotabi

格差社会や、生まれに対する深いメッセージが、菊千代を通じて私たちに問いかけます。

ダニー
ダニー

もう、苦しくなるくらいだったね。

 

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