ロバート・ゼメキスの新作『Here』は、一つの場所を舞台に、数百万年前の先史時代から現代、そして近未来まで、途方もない時間の流れを描く、野心的な作品です。
従来の年代記のような構成ではなく、同じ場所に生きた様々な時代の住人たちの生活や出来事を、まるでその場所に固定されたカメラの視点を通して、時代を超えて垣間見るような、非常にユニークな映画体験を提供すると期待されています。


ネタバレ記事になるから、まだ観てない人は観てから読んでね!
描かれていた時代
具体的に描かれる時代としては、以下のような幅広い時代が含まれます。
途方もない過去: 数百万年前の恐竜時代の様子が描かれます。
古代: その土地で生活していたネイティブアメリカンの時代の文化や暮らしが描かれます。
植民地時代: ベンジャミン・フランクリンが生きていた時代の様子が描かれます。アメリカの歴史における重要な時期がどのようにこの場所と関わっていたのかが示唆されます。
激動の20世紀:アメリカ近代の歴史です。トム・ハンクスらメインのストーリーもここになります。
近代: 近代の生活、その場所がどのように変化していくのかも描かれます。

それではここから、メインとなる20世紀について解説していきましょう。プロパガンダかどうかを知る上でも、このあたりをしっかりと掴むことはかなり重要です。
20世紀について
20世紀は、『Here』において特に多くの時代が切り取られ、それぞれの時代を象徴する事件、出来事、そして人々の生活が描かれます。
1900年代初頭: この時代には、技術革新への希望とともに、人々の生活を脅かすインフルエンザの流行が明確に描かれています。1918年のスペイン風邪以前にも、インフルエンザは人々の健康を脅かす存在であり、映画では当時の人々の不安や、病との闘いが描かれると考えられます。
1920年代: 禁酒法時代のアメリカを背景に、自由で活気ある雰囲気が描かれます。あるカップルが家で踊り明かす様子は、当時の解放感や享楽的な空気を伝えているでしょう。また、この時代には、後に快適な座り心地を提供する革新的な家具となる「La-Z-Boy」リクライニングチェアを発明するカップルの物語も登場します。
1940年代: 第二次世界大戦という未曽有の出来事のその後を描いています。トム・ハンクス演じるリチャードの父と母が、この家に住み始めるチャプターがこの時代です。
1960年代以降: トム・ハンクスとロビン・ライトが演じる夫婦のパートは、1960年代に始まり、その後も時代が描かれます。感謝祭に弟が入隊するシーンから、当時のアメリカが本格的に介入していたベトナム戦争の影響が示唆されます。また、ロビン・ライトが映画『MASH』のトレーナーを着ているシーンがあることから、1970年代以降の彼らの生活も描かれていることが分かります。『MASH』はベトナム戦争を背景とした作品であり、このトレーナーは、弟の入隊や戦争が夫婦の人生に与えた影響を象徴している可能性があります。夫婦の若さゆえの葛藤から、その後の人生における喜びや苦難が、この場所で長きにわたり繰り広げられていくことになります。
2020年代: 現代を生きる私たちの記憶にも新しい、新型コロナウイルス感染症のパンデミック下の生活も描かれます。リモートワークや外出自粛など、これまでの日常が一変した状況の中で、人々がどのように繋がりを保ち、困難を乗り越えようとしたのかが描かれます。また、この時代に家政婦を亡くした家族の物語も語られます。
全体的な象徴性:
20世紀を通して描かれるのは、同じ場所で繰り返される生と死、出会いと別れ、喜びと悲しみといった、普遍的な人間の営みです。家の変遷や家具の移り変わりは、時代の流れを象徴するとともに、人々の生活様式や価値観の変化を映し出します。
しかし、場所そのものは変わらずに存在し続け、そこで繰り広げられる様々な時代の物語を静かに見守っているのです。
この映画は、時間という壮大なスケールの中で、場所が持つ記憶と、そこに生きた人々の繋がりに思いを馳せる、感動的な体験をもたらしてくれるかもしれません。

それではここから、それぞれの年代をインプットした上で、プロパガンダ的な視点から見た解説をしていきたいと思います。
プロパガンダ的な視点から見た『Here』の可能性
ロバート・ゼメキスの映画は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『フォレストガンプ』に見られるように、アメリカの保守的な考え方、時代を称賛し、美化して伝える側面を持っています。逆に、革新的なもの、例えば人権を守る、多様性を受け入れる、反戦運動など、そういったものは悪く描く傾向があるのです。
そういった目線でもって、『Here』についても分析してみましょう。
場所の普遍性とアメリカの理想: 同じ場所で様々な時代の人々が生活する様子を描くことで、アメリカという国家や社会が持つ多様性や、時代を超えて受け継がれる普遍的な価値観(家族、愛、希望など)を強調している可能性があります。これは、国民統合や愛国心を醸成するプロパガンダの要素と解釈できるかもしれません。
歴史の美化と負の側面の希薄化: 先史時代から近未来までを描く壮大なスケールの中で、アメリカ史における負の側面(例えば、ネイティブアメリカンの迫害、奴隷制度、人種差別など)が表面的にしか描かれない、あるいは意図的に触れていない可能性があります。その場合、アメリカの歴史を都合よく美化していると捉えられかねません。
特定の価値観の強調: 家族の重要性、個人の努力、技術革新への信頼といった、アメリカ社会で一般的に肯定される価値観が強調されていました。これは、特定のイデオロギーを浸透させるプロパガンダの手法と類似していると言えます。
ノスタルジーの喚起: 過去の特定の時代を美しく描き出すことで、観客のノスタルジーを喚起し、現状に対する肯定的な感情や、過去への回帰願望を植え付ける可能性があります。

ちなみに、原作小説では未来のパートが描かれ、あの家は無くなってしまうんですが、そこに関しては一つも描いていません。これもまた、決して揺るがないアメリカの強さのようなものを強調しているのかなと思います。
反論と多角的な視点 本当にプロパガンダなのか?
一方で、ゼメキス監督の意図が必ずしもプロパガンダにあるとは限らないとも言えます。
普遍的な人間ドラマの追求: 彼の作品は、時代や国境を超えた普遍的な人間の感情やドラマを描こうとしているとも解釈できます。『Here』も、場所という制約の中で、人間の生と死、喜びと悲しみを深く掘り下げることを主眼としているかもしれません。
歴史の断片的な描写: 途方もない時間の流れを描く中で、特定の時代や出来事を深く掘り下げるのではなく、あくまで断片的に提示することで、歴史の重層性や連続性を示唆しようとしている可能性もあります。
観客の解釈への委ね: ゼメキス監督は、特定のメッセージを押し付けるのではなく、観客自身の解釈に委ねるような余白を残した作品作りをすることもあります。『Here』も、様々な時代の出来事を提示する中で、観客がそれぞれの視点から歴史や社会について考えるきっかけを与えることを意図しているかもしれません。
管理人の感想
率直な感想としては、そこまで考えすぎずに観れば、かなりいい映画なんじゃないかと思います。
時代をクロスオーバーする手法は面白いし、感動的でかつコメディもある。『フォレストガンプ』ファンにはたまらない作品でしょうね。雰囲気は結構似てます。
だからこそ、やはり恐いなと感じる部分も大いにありますね。また、いい映画作っちゃったなって感じ。やはり、プロパガンダ的な側面や、アメリカ讃歌な部分は強いです。
しかしながら、そういった批判であるとか、過去の作品から反省した部分というのもみられました。
もっと白人讃歌的な映画かなと思ってたんですけど、現代パートでは黒人が伝統的な家を住む様子を描いているし、中でも黒人差別をキチンと描いたことは評価したいところです。目を背けなかったというかね。
でも、ネイティブ・アメリカンを描くのであれば、彼らを迫害した負の描写も、少しくらいほしかったところです。どうして幸せに暮らしていた彼らの場所が、白人のものになってしまったのかというのを、より具体的に。そこだけぽっかりと空いてましたね。気づいたら白人の町になっちゃってた。
あと、1920年代を描くのが、今ひとつ分からない。必要だったのかな?アメリカで白人たちが最も成功したというか、勢いのあった時代なんですよね。『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』で描かれたような、ネイティブ・アメリカンとの対立の歴史もあったのに。
最後に、映画の中で度々登場するハチドリについて、少し解説しておこうと思います。
『フォレストガンプ』では白い鳥の羽が出てきましたよね。本作ではハチドリが一つカギとなっているんです。

ハチドリは、世界中で「希望」や「幸運」、「ポジティブな変化」の象徴として語られてきました。
特に、ネイティブ・アメリカンの伝承では、「奇跡をもたらすメッセンジャー」とされ、人々に勇気や前向きなエネルギーをもたらす存在と考えられています。
ハチドリは困難な状況の中でも希望を持ち続ける力を象徴し、その姿は人生において転機を迎える際の導きとなるものとされています。
また、ハチドリの特徴的な飛び方—ホバリングをしながら蜜を吸う動作—は、「今この瞬間を大切にする」ことの象徴とも言われます。
彼らの自由自在な飛行は、「柔軟性」や「適応力」の重要性を示し、流れに身を任せながらも目の前の機会を活かすことの大切さを教えてくれます。
以上を踏まえた上で、ネイティブ・アメリカンのパートを美しく描いた事や、彼らにとって特別な意味を持つこのハチドリを映画の象徴のように扱った事。
これをお為ごかしと考えるか、それとも歩み寄りや贖罪のようなものとして扱ったと考えるか。
実に難しいところです。
今日の映学
最後までお読みいただきありがとうございます。
『Here』の各年代やプロパガンダ的な側面について解説しました。

どう捉えるかは、結局、鑑賞者しだいかなと思います。これからこの映画の評価がアメリカにおいてどのように扱われるか、また、レーガンのように、トランプが何かしらこの映画について言及するのか。そのあたりに注目していきたいですね。

まあ、面白い映画ではあったよね。
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