最後は君の番だよ
映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』の分かりにくい設定や、表面上は語られないポイント、監督自身の思いにフォーカスして解説する記事です。
きっと、何倍も映画が面白くなりますよ。
まずは監督の想いをざっくりと!
庵野監督が伝えたかったこと
特撮への愛
庵野監督の特撮への愛は『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の至るところに見られます。
- 吊り糸の演出: 冒頭のパリの戦闘シーンで吊り糸が見える演出は、特撮の技法へのオマージュです。特撮映画では、ミニチュアやセットを用いた撮影で吊り糸が使われることがあり、これをあえて見せることで特撮の魅力と監督の愛情を表現しています。
- 『惑星大戦争』のテーマ使用: ヴンダーの戦闘シーンで使われた『惑星大戦争』のテーマ音楽も、特撮への愛を示す要素の一つです。この音楽は特撮映画の名作『惑星大戦争』のテーマであり、それを用いることで特撮ファンへの敬意と、作品に深みを加えています。
キャラクターの成仏
エヴァンゲリオンのキャラクターたちは、それぞれの苦しみや葛藤を経て成長し、最終的に新しい未来へと旅立ちます。特にシンジの成長と和解のシーンは、キャラクターたちが過去の苦しみから解放される瞬間を象徴しており、ファンに対する一つのメッセージとも言えます。
長年完結を待っていたファンへの感謝と、庵野監督自身が苦しみから逃れるための演出なんですね。
それでも腹は減る 『火垂るの墓』との関連
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』におけるシンジのシーンも、同様のテーマを持っていると解釈できます。
アスカと綾波の行動
- アスカがシンジにレーションを無理やり食べさせるシーン: シンジが深い失意の中にある時に、アスカが彼に食べ物を与えることで、シンジが生き続けなければならないというメッセージを強調しています。これは、失意の中でも生きる意志を失わずに続けることの重要性を示唆しています。
- 綾波が置いたレーションが無くなるシーン: 綾波がシンジのために置いていったレーションが無くなっているシーンは、『火垂るの墓』の節子が亡くなった後に空っぽの鍋を見せるシーンと重なる部分があります。これは、生きていかなければならないという現実を強調し、失意の中でも食べなければならない、つまり生き続けなければならないというメッセージを伝えています。
庵野監督の意図
庵野監督は、『火垂るの墓』の影響を受けて、このような失意の中でも生き続けることの重要性をエヴァンゲリオンを通じて表現した可能性が高いです。彼の作品には、過酷な状況下での人間の生存と絆を描くことで、キャラクターの内面的な成長や苦悩を強調する要素が多く含まれています。
このように考えると、庵野監督が特撮やアニメの歴史に対する敬意を持ちながら、自身の作品にその要素を取り入れ、観客に強いメッセージを伝えていることがわかります。
特にジブリ作品への想いは強いのではないかと。『もののけ姫』や『ナウシカ』を感じるシーンもちらほら。
渚カヲルと碇ゲンドウは同一人物?
カヲルくんとゲンドウは同一人物というか、1人の人間の暗黒面がゲンドウ、優しい面がカヲルなのではないかと思うんです。
ピアノが好きだったという発言
ゲンドウが過去を語る際に「ピアノが好きだった」と言うことは、カヲルと重なる部分があります。カヲルはシンジとピアノを通じて深い交流を持ち、音楽を通じて彼らの関係を象徴的に表現しています。この共通点は、二人のキャラクターが本質的に繋がっていることを示唆しているかもしれません。
13号機の座り方
最終決戦での13号機の座り方がカヲルの初登場時と同じであるという点も重要です。この演出は、カヲルとゲンドウのキャラクターが視覚的にも重なっていることを示し、二人が同じ人間の異なる側面を象徴していることを暗示しています。
息子に関われない不器用さの分、カヲルという人格でもって接っしようとしたのかもしれませんね。
初号機と13号機の戦闘シーン
実に印象的なあのバトル。
過去作や映画の撮影スタジオセットが映りますよね。
メタフィクション的な演出
観客への意識喚起
映画のセットやカメラを見せることで、観客に対して「これは映画である」という認識を強調し、フィクションと現実の境界を曖昧にする効果があります。これはメタフィクションの手法の一つであり、観客に対して作品の本質や制作過程を意識させる狙いがあります。
自己言及的な表現
庵野監督は、自身の作品に対して自己言及的な要素を取り入れることが多いです。このシーンも、その一環として、エヴァンゲリオンという作品自体やその制作背景について言及していると考えられます。これは、エヴァンゲリオンシリーズが自己探求や内面的な成長をテーマにしていることと関連しています。
エヴァの世界と現実の融合
フィクションと現実の融合
映画のセットやカメラが登場することで、エヴァの世界が現実の世界と融合しているように見えます。これは、作品内のキャラクターやストーリーが単なるフィクションではなく、視聴者の現実と深く結びついていることを象徴しています。視聴者に対して、エヴァの物語が自分自身の人生や感情とどれだけ重なるかを再認識させる効果があります。
庵野監督のメッセージ
映画制作への敬意
映画のセットを見せることで、庵野監督自身の映画制作への深い敬意と愛情を表現しています。監督は、映画というメディアが持つ力やその制作過程の美しさを観客に伝えたいと考えているのかもしれません。
自らの創造物との対話
このシーンは、監督自身がエヴァンゲリオンという創造物と対話し、自身の内面と向き合う場面とも言えます。映画の中で映画制作の要素を取り入れることで、監督自身が作品を通じて自らの考えや感情を探求し続けていることを示しています。
撮影スタジオのカットでは、エヴァの着ぐるみのようなものが置いてあったり、帰ってきたウルトラマンのオマージュがあったりと、これまた特撮愛を感じる演出でもあるのです!
真希波・マリ・イラストリアスについて
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』では、真希波・マリ・イラストリアス(マリ)と碇シンジの関係が特に注目されています。以下は、いくつかの考察ポイントです。
マリとシンジの関係:
マリはシンジに対して特別な関心を持っているように描かれています。彼女はシンジを励まし、支え続ける存在として登場し、最終的にはシンジと共に新しい世界へと旅立つシーンが描かれています。このことから、マリとシンジの関係は、単なる仲間以上のものとして解釈されています。
ループ説:
『シン・エヴァンゲリオン』では、シリーズ全体がループしているという説が根強くあります。特に、渚カヲルの「定められた円環の物語の中で演じることを永遠に繰り返さなければならない」というセリフが、この説を支持しています。このループの中で、マリがシンジを導く役割を果たしていると考えられています。
マリの正体:
マリの正体についても多くの考察があります。彼女が他のキャラクターよりも多くの情報を知っているように見えるのは、彼女が特別な背景や訓練を受けているからだと考えられています。また、彼女がシンジに対して特別な感情を抱いていることから、彼女の存在がシンジの成長に大きな影響を与えているとされています。
マリはゲンドウやユイ(シンジの母)の同級生であり、彼らと深い関係があったことが示唆されています。「シン・エヴァンゲリオン劇場版」でこの設定が明らかにされました。
2人の親しい友人であったことから、その息子であるシンジを支えたいという強い気持ちが生まれているのでしょう。
ラストシーンの意味:
最終的にシンジとマリが現実世界に戻るシーンは、エヴァンゲリオンの物語が終わり、新しい始まりを示唆していると解釈されています。このシーンは、シンジが過去のトラウマを乗り越え、新しい人生を歩み始める象徴として描かれています。
今日の映学
最後までお読みいただきありがとうございます!
今回は表面上のストーリーではなく、裏の設定や、監督自身の思いにフォーカスしてお伝えしました。
これらをインプットして観ると、またグッと見え方が変わって面白いですよ。
細かいところもぜひ楽しんでみてね~。
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